100日後に死んで生き返る私

50歳 ネガティブな生き方から脱却する

親の問題

 親から望んだ愛情を受けられなかったことから、自分は思った以上に愛着の問題を抱えているんだなと、確信した訳だが、愛着障害の子どもの親もそうであるから、自分のこどもに上手く愛情を与えられないという説をよく見聞きする。負の連鎖である。

 

両親のことを思う時、少なくとも父親は愛着障害であったと思う。

 

 父は10人くらいの兄弟の下から2番目として誕生した。父親は会社をやっており、地域でも一目置かれる存在だったという。なので、周囲からもてはやされ、学校でも高待遇だったそう。しかし、父が小学3、4年の頃、父親が亡くなった。すると、それまですりよってきた人々は離れていき、学校でも手のひらを返したように教師を含め、冷たい態度に豹変したらしい。

 

 一番上の兄が父親代わりで働き、兄弟を育ててくれたそうだ。母親はいたが、兄弟が多くそんなに甘えられなかったと思う。弟に耳の障害があったため、母親はその世話も大変だったのだろう。

 父の、見栄っ張り、周囲の人を信用しない、悪く言う、見下す…というところは、こういう子ども時代の体験から形成されたのかもしれない。

子どもの頃から、父に他人は信用できない、と刷り込まれて育った私も、周りに心を開けない、見栄っ張り…という部分があったと思う。見栄っ張りなところは、さすがにそぎ落とされ丸くなったと思うが、なかなか周囲に心は開けない。

 

 母は4人兄弟の末っ子として誕生した。母は、愛着障害というより自閉傾向があると思う。中学生の頃に精神病院に入院させられたことがあるらしい。母は、精神的に不安定な部分があったと思う。失語症ではないか、と疑われるほどに外では口数が少なくおとなしかった。なので、子どもの頃は、参観日の時など、他のお母さんたちがわいわい話たりしてるなかで、ひとり誰とも口を聞かず小さくなっている母を見るのがいやだった。私が見栄っ張りなせいもあるのだろうけど。

 

 田舎のお母さんたちはみんな元気で農業をしながら他の仕事もバリバリこなしているなかで、母は誰とも交流せず、かといって主婦業もそんなに好きではないようで、よく横になっていた印象がある。しかし、尊敬すべきは、そんな対人恐怖のなかにいて家計のためにパートに出ていた時もあったことだ。大変だったろうな、と推測する。

 イライラぴりぴりしている神経質な父と違って、だいたい穏やかで優しい母だった。たまに発狂的にキレることはあっても。。

 

 父はもう亡くなっているので何も今さら聞けないが、年老いた母にも、これまでの苦しかった心の問題を話そうとは思わない。もっとこうして欲しかったと話したところで、どうしてもらうこともできないだろうし、無用に傷つけたくはない。

 

 結局、私は、両親を恨んでいず、感謝もしている。ここ何日か、ずっと子ども時代を振り返って、自分はどうして欲しかったのか考えていて、両親にも色々な事情、背景があり、彼らなりに愛情を与えてくれていた、と思うに至った。