100日後に死んで生き返る私

50歳 ネガティブな生き方から脱却する

情熱の炎は昔も今も燃えていなかった

ひとの記憶に残る作品を作ったり、賞賛されたり、感動させたりできる人達は、

情熱の炎を燃やして、ひたむきに頑張れる人たちなのだな。

作品だけでなく、芸能、物をつくる人、システムを考える人、世のためになることを考えて実行する…。大小に関わらず、情熱の炎を燃やせる努力のできる人たちなのだな。

 

と、そんなことを思った。

 

これまでの人生で情熱を燃やして生きれた瞬間などあったのかな。

出産の時くらいかな。絶対に無事に子どもを産むこと!

だけど、これは生きものである限り、本来備わっている本能ともいえるしな。

 

ほとんどは、死なないように生きてきた、という感じだった。

情熱の炎を燃やす努力を怠ってきた、放棄してきた人生。

 

自分が何も持っていないのは、そのせい。その結果が今なんだ。

そして、このまま、それを受け入れて死んでいく。

そんなとこだろう。もう若くもないし気力もない。

 

いつか死ぬ。いつ死ぬかわからない。明日かもしれないし、一年後かもしれない。

焦って自ら実行することはない。

 

自分がどんな人間であるか、知れば知るほど、どうでもよい存在に思えてくる。決して自分が嫌いということではない。自分が一番自分のことを大事にしようとは思う。前向きに考えてどうでも良い。ということだ。だから、自分を肯定して甘やかせて、できるだけ楽しく、好きに生きていきたいと思う。残りの人生…。

 

そんな自分は驚くほど鬼滅の刃にハマってるわけで…。

 

死にたくなってもありとあらゆる逃避思考、行動に切り替えることができるようになりつつある。

 

 

 

 

 

 

 

 

片付けができない

愛着障害が起因の一つと思われる問題

 

●片付けができない

 

整理整頓ができない。何から手をつけてよいのかわからない。手を出そうとするけど、うまくできなくてそのウチ頭がぼんやりしてくる。

そういう障害なのかと思って、調べたりしたけど違うようだ。障害ならしょうがないなと思えるし対処しようがあるのにな、とも思ったけど…。

 

なぜなら、きちんと片付けできていた期間があったからだ。

 

それは、中学生の時、田舎故、3つの小学校が合わさっている中学校だったので、遠い子は寮生活となった。その3年間は、時間が決められていたのもあるが、きちんと整理整頓できていた。そして、その3年間、一番集中して勉強も部活も頑張った。振り返っても人生で一番充実していた日々だったと思う。

 

不安定な親元でストレスフルに過ごすより良かったという例である。

 

でも、寮生活だと制約が多く視野が狭くなるのでよくなかったな…、と一時期思ったこともあったが今振り返ると、死にたい消えたいというのはその頃なかった気がする。

一度死ぬまで半分をきる…

もう、生まれ変わりたい日まで残り50日をきってしまった。

 

当初の目標は、現在クリアしているものをあるが、ほとんどクリアできていない。

 

やせる…ほとんど痩せてない。

運動習慣…毎日ではないがウォーキングをするようになった。これは進歩。

30日プランクチャレンジは残り7日辺りで挫折。

ホクロをとる…クリア

ピアス穴をあける…まだこれから。

経済的自立…求職活動はしているが、ことごとく落ちている。

精神的自立…自分の問題をだいたい把握することができたが、解決していくには時間がかかりそう。たまに死にたくてどうしようもなくなる希死念虜をどうにかなだめ朝を迎える日々。

断捨離…物に関しては進んでない。人に関してはラインのグループを見直したくらい。

親の問題

 親から望んだ愛情を受けられなかったことから、自分は思った以上に愛着の問題を抱えているんだなと、確信した訳だが、愛着障害の子どもの親もそうであるから、自分のこどもに上手く愛情を与えられないという説をよく見聞きする。負の連鎖である。

 

両親のことを思う時、少なくとも父親は愛着障害であったと思う。

 

 父は10人くらいの兄弟の下から2番目として誕生した。父親は会社をやっており、地域でも一目置かれる存在だったという。なので、周囲からもてはやされ、学校でも高待遇だったそう。しかし、父が小学3、4年の頃、父親が亡くなった。すると、それまですりよってきた人々は離れていき、学校でも手のひらを返したように教師を含め、冷たい態度に豹変したらしい。

 

 一番上の兄が父親代わりで働き、兄弟を育ててくれたそうだ。母親はいたが、兄弟が多くそんなに甘えられなかったと思う。弟に耳の障害があったため、母親はその世話も大変だったのだろう。

 父の、見栄っ張り、周囲の人を信用しない、悪く言う、見下す…というところは、こういう子ども時代の体験から形成されたのかもしれない。

子どもの頃から、父に他人は信用できない、と刷り込まれて育った私も、周りに心を開けない、見栄っ張り…という部分があったと思う。見栄っ張りなところは、さすがにそぎ落とされ丸くなったと思うが、なかなか周囲に心は開けない。

 

 母は4人兄弟の末っ子として誕生した。母は、愛着障害というより自閉傾向があると思う。中学生の頃に精神病院に入院させられたことがあるらしい。母は、精神的に不安定な部分があったと思う。失語症ではないか、と疑われるほどに外では口数が少なくおとなしかった。なので、子どもの頃は、参観日の時など、他のお母さんたちがわいわい話たりしてるなかで、ひとり誰とも口を聞かず小さくなっている母を見るのがいやだった。私が見栄っ張りなせいもあるのだろうけど。

 

 田舎のお母さんたちはみんな元気で農業をしながら他の仕事もバリバリこなしているなかで、母は誰とも交流せず、かといって主婦業もそんなに好きではないようで、よく横になっていた印象がある。しかし、尊敬すべきは、そんな対人恐怖のなかにいて家計のためにパートに出ていた時もあったことだ。大変だったろうな、と推測する。

 イライラぴりぴりしている神経質な父と違って、だいたい穏やかで優しい母だった。たまに発狂的にキレることはあっても。。

 

 父はもう亡くなっているので何も今さら聞けないが、年老いた母にも、これまでの苦しかった心の問題を話そうとは思わない。もっとこうして欲しかったと話したところで、どうしてもらうこともできないだろうし、無用に傷つけたくはない。

 

 結局、私は、両親を恨んでいず、感謝もしている。ここ何日か、ずっと子ども時代を振り返って、自分はどうして欲しかったのか考えていて、両親にも色々な事情、背景があり、彼らなりに愛情を与えてくれていた、と思うに至った。

もっと褒められたり、応援してもらいたかった…

 こどもの頃に褒められた記憶が学校の先生からしかない。

おそらく幼児の時なども、もっと両親にもほめられただろうが全く覚えていない。

 

 だから、ほめられたことは強烈に今でも覚えていて、少なからず自分の指向に影響していると思われる。

 

 小学校低学年の時、夕焼けについて書いた詩の描写を褒められたこと。今でも詩を時々書いている。完成すると達成感があって心があたたまって落ち着く。

 

 中学の時、水泳の授業で飛び込みの姿勢がキレイだとみんなのお手本になったこと。なんでも好きな競技ができるとすれば高飛び込みをやりたい、と今でも思う。

 

 逆に褒められなくてさみしかったことも覚えている。

 

 マラソン大会で1位になった時。期末テストで10位以内に入ったときも。

親はほとんど関心を示さなかった。それどころではなかったのだろう。

 

 中学の部活は、割と強豪の運動部だったため、練習試合の送迎や懇親会に親が駆り出されることが多く、応援するどころか迷惑そうにしているのをみて、忙しいのに申し訳ないなと思う反面さみしかった。

 

振り返って、はっきりした願望。

 

私はずっと

もっと褒められたり、応援してもらいたかったのだ。

 

 これは、自分が親になってから特に思うことだ。自分が子どもに対して自然としてることなので、余計に、なんでしてくれなかったのだろう。と違和感を抱くのだ。恨んでいるわけでもないし(多分)、はっきり反面教師と割り切れるわけでもない。もやもやしている。子どもを持つまでは、自己肯定感と育った環境の影響についてこれほどまでにつながっているとは思わなかった。20歳も過ぎれば、もう自分のせい、努力不足のせいだろう、と思っていた。

 しかし、100%ではないにしても、この自己肯定感の低さからくる生きづらさの原因のひとつなのだろう。

 

 ずっと、この心の欲求が解消されないまま、ここまで来てしまっているし、この心の穴がある限り、人となかなか親密になれないのかもしれない。親密の加減がうまくできない。親密の加減とか気にしてる段階で、まあ、自然じゃないな…。

 

 ママ友づきあいとか、この加減が私には高度すぎて…。なるべくサラっとするようにしてる。一度、加減を間違えて悲しい思いをしたので。

 

 また、この他人との関係の持ち方、接し方にも、親の他人とのつきあい方の影響を受けていると思う。

育った環境と親からの洗脳

 人口5千人ほどの過疎の町に生まれた。

 3人兄弟の末っ子。兼業農家の多いなかで、父親は土建業、母親は専業主婦という家庭で育つ。5つ年上の兄は、長男だからか父親からの期待が大きかったが、これが出来が悪く(頭が悪いという意味)、このど田舎では珍しい高学歴の父親からいつも厳しくしかられてばかりいた。その分、兄は母にとっては可愛い可愛い息子であった。3つ年上の姉は、手先が器用でオシャレでしっかりものなので、父親からの信頼が厚く、逆に不器用な母との相性は悪かった。私は末っ子なので、特に期待も受けず、きまぐれに可愛がられて育ったように思う。

 

 振り返ってもこども時代に両親に褒められたり、期待されたりしたことなどなかった。父親は、神経質で仕事のことばかり考えてイライラしていたし、母は不安定なところがありほとんどはおだやかなのだけれど、時々キレる時があった。

 

 衣食住には困っていなかったけれど、きっとさみしかったと思う。もっと、自分に感心をもって興味をもって見てほしいと思っていたと思う。

 

 だけど、いつもことあるごとに言われていた。

 

 「子どもたちを育てるために、どれだけ大変でどれだけお金がかかるのか」

 「一家心中しないとダメかと思ったりする」

 

 それらの言葉は、幼いこどもにとっては、自分たちを育てるために親は大変な思いをして頑張ってくれている。求めることはかなわない。逆に感謝しなくては。そして、大きくなったら、親を助けて楽にしてあげるんだ…。と思わせる威力があった。

 

 親の無意識下での洗脳である。

 

 その証拠に、中学で寮生活に入るまで、毎晩寝る前に、大きくなったらお金持ちになって、みんなを幸せにできますように。と手を合わせてお祈りしていた(健気…)。

 

 家に借金取りからの電話が頻繁にきたり(父は居留守、母は上手く対処できないので、私が父はいませんとガチャ切りしたりしていた)、時には学校から帰ると玄関にずっと立っていたりした。それでも、羽振りの良い時期(ほんとうにちょっと)もあり、家に一角に事務所を造り事務員さんを雇っていたりもした。また、地域からの期待なのか押しつけなのか分からないけど、PTA会長を勤めることもあった。しかし、潤いは表面的で、一向に自分たちに回ってきた感覚はない。いつでもお金に困っているように余裕がないように見えた。

 

 そして、心身へのストレスの影響はゆっくりと自分で自覚もなく忍び寄ってきていた。

愛着障害は原因の一要因

 私は、最近出会った愛着障害という概念について調べるうち、私の抱える問題は、愛着障害だったのだと考えた。なぜなら、自分の経験してきたことのうち思いもよらないことも、それが原因の一端だったことが判明したからだ。そうなるとそれに続いて腑におちることが次々と出てきた。

 

 しかし、厳密には、愛着の問題を抱えているのは間違いないが、診断としての狭い意味での愛着障害とはいえず、それに加え、他の要素もからみ、生きるのがしんどい状況になっているようだ。

 

 遺伝的気質に加え、愛着障害(親からの無意識下での洗脳含め)、重なる病気やケガによる挫折体験、愛着の問題を抱えている自覚なしに依存的に結婚したせいなのか結局配偶者とも上手くいかず、これからどう生きようか…と、色んなことが絡まりあっている状態。

 

 で、解決するために、

 

 フタをして、捨ててしまおうと思っていた昔のことを振り返り、その時の心の動きをバイアスを取り除き、客観的に昇華していく作業をしていこうと思う。

 

100日後(正確にはあと86日)の生まれ変わりの日までに。