100日後に死んで生き返る私

50歳 ネガティブな生き方から脱却する

もっと褒められたり、応援してもらいたかった…

 こどもの頃に褒められた記憶が学校の先生からしかない。

おそらく幼児の時なども、もっと両親にもほめられただろうが全く覚えていない。

 

 だから、ほめられたことは強烈に今でも覚えていて、少なからず自分の指向に影響していると思われる。

 

 小学校低学年の時、夕焼けについて書いた詩の描写を褒められたこと。今でも詩を時々書いている。完成すると達成感があって心があたたまって落ち着く。

 

 中学の時、水泳の授業で飛び込みの姿勢がキレイだとみんなのお手本になったこと。なんでも好きな競技ができるとすれば高飛び込みをやりたい、と今でも思う。

 

 逆に褒められなくてさみしかったことも覚えている。

 

 マラソン大会で1位になった時。期末テストで10位以内に入ったときも。

親はほとんど関心を示さなかった。それどころではなかったのだろう。

 

 中学の部活は、割と強豪の運動部だったため、練習試合の送迎や懇親会に親が駆り出されることが多く、応援するどころか迷惑そうにしているのをみて、忙しいのに申し訳ないなと思う反面さみしかった。

 

振り返って、はっきりした願望。

 

私はずっと

もっと褒められたり、応援してもらいたかったのだ。

 

 これは、自分が親になってから特に思うことだ。自分が子どもに対して自然としてることなので、余計に、なんでしてくれなかったのだろう。と違和感を抱くのだ。恨んでいるわけでもないし(多分)、はっきり反面教師と割り切れるわけでもない。もやもやしている。子どもを持つまでは、自己肯定感と育った環境の影響についてこれほどまでにつながっているとは思わなかった。20歳も過ぎれば、もう自分のせい、努力不足のせいだろう、と思っていた。

 しかし、100%ではないにしても、この自己肯定感の低さからくる生きづらさの原因のひとつなのだろう。

 

 ずっと、この心の欲求が解消されないまま、ここまで来てしまっているし、この心の穴がある限り、人となかなか親密になれないのかもしれない。親密の加減がうまくできない。親密の加減とか気にしてる段階で、まあ、自然じゃないな…。

 

 ママ友づきあいとか、この加減が私には高度すぎて…。なるべくサラっとするようにしてる。一度、加減を間違えて悲しい思いをしたので。

 

 また、この他人との関係の持ち方、接し方にも、親の他人とのつきあい方の影響を受けていると思う。