100日後に死んで生き返る私

50歳 ネガティブな生き方から脱却する

育った環境と親からの洗脳

 人口5千人ほどの過疎の町に生まれた。

 3人兄弟の末っ子。兼業農家の多いなかで、父親は土建業、母親は専業主婦という家庭で育つ。5つ年上の兄は、長男だからか父親からの期待が大きかったが、これが出来が悪く(頭が悪いという意味)、このど田舎では珍しい高学歴の父親からいつも厳しくしかられてばかりいた。その分、兄は母にとっては可愛い可愛い息子であった。3つ年上の姉は、手先が器用でオシャレでしっかりものなので、父親からの信頼が厚く、逆に不器用な母との相性は悪かった。私は末っ子なので、特に期待も受けず、きまぐれに可愛がられて育ったように思う。

 

 振り返ってもこども時代に両親に褒められたり、期待されたりしたことなどなかった。父親は、神経質で仕事のことばかり考えてイライラしていたし、母は不安定なところがありほとんどはおだやかなのだけれど、時々キレる時があった。

 

 衣食住には困っていなかったけれど、きっとさみしかったと思う。もっと、自分に感心をもって興味をもって見てほしいと思っていたと思う。

 

 だけど、いつもことあるごとに言われていた。

 

 「子どもたちを育てるために、どれだけ大変でどれだけお金がかかるのか」

 「一家心中しないとダメかと思ったりする」

 

 それらの言葉は、幼いこどもにとっては、自分たちを育てるために親は大変な思いをして頑張ってくれている。求めることはかなわない。逆に感謝しなくては。そして、大きくなったら、親を助けて楽にしてあげるんだ…。と思わせる威力があった。

 

 親の無意識下での洗脳である。

 

 その証拠に、中学で寮生活に入るまで、毎晩寝る前に、大きくなったらお金持ちになって、みんなを幸せにできますように。と手を合わせてお祈りしていた(健気…)。

 

 家に借金取りからの電話が頻繁にきたり(父は居留守、母は上手く対処できないので、私が父はいませんとガチャ切りしたりしていた)、時には学校から帰ると玄関にずっと立っていたりした。それでも、羽振りの良い時期(ほんとうにちょっと)もあり、家に一角に事務所を造り事務員さんを雇っていたりもした。また、地域からの期待なのか押しつけなのか分からないけど、PTA会長を勤めることもあった。しかし、潤いは表面的で、一向に自分たちに回ってきた感覚はない。いつでもお金に困っているように余裕がないように見えた。

 

 そして、心身へのストレスの影響はゆっくりと自分で自覚もなく忍び寄ってきていた。